サイコパス撮影会をしてきた@TFT

久しぶりにイベント会場で併せ撮影会をしてきました。
ひっさびさのTFT\( ‘ω’)/
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ピクセルスティック撮影を初体験してきました。
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もう少しお空が暗かったら綺麗に写ったのですが、
最近日が長くなってきましたね。

あと、シャッタースピード長くして光の軌跡をとるやつ。
これはモデルががんばらないといけないな…。
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サイコパス併せは何回かさせて頂いたことがあったのですが、
ここまでキャラがそろったのは初めて。

楽しかったですヾ(*´∀`*)ノ キャッキャッ♪

Photo:マスターアキバさん
狡噛慎也:おささん/常守朱:凛凪さん/宜野座伸元:rainさん/征陸智己:黄泉さん/縢秀星:沖宮/六合塚弥生:奈緒さん/槙島聖護:花舘みちるさん/チェ・グソン:朝霧葛葉さん

それはきっとまがい物ではなかろうかという完コスの話。

最近完コスについて語ることがフレンドさんの中で空前の大ブーム。
じゃあじゃあ、おじさんも便乗しようではないか。

完コスとはなんだ、これ禅問答ですよ。

人間長く生きてると自分の弱さとか汚さに絶望するんです。
弱い自分は嫌だ嫌だ汚い自分は嫌だ嫌だって、何とかそれに抗おうと思って、
強さとは何だ美しさとは何だって悶々と考えるわけですね。

強さって何だろうと考えてみると、
例えば「握力」だと思います?
きっと違う、例えば非力な少年に【強さ】が宿ることだってあります。
例えば「誰かを守ろうとする行動力」だと思います?
きっと違う、例えば心の無いショベルカーにも【強さ】は宿ります。

同じく美しさって何だろうと考えてみると、
例えば「陶器のように滑らかな肌を持つこと」だと思います?
きっと違う、突き刺さるほどの鋭利なトゲを持つ薔薇にも【美しさ】は宿ります。
例えば「人々を慈しむ深い愛を持っている」ことだと思います?
きっと違う、冷酷なドラキュラにも【美しさ】は宿ると思います。

「本当の強さとは、力“だけ”じゃないんだうぉぉぉー\( ‘ω’)/」とか、
「美しさって、見た目“だけ”じゃないのよキララララーン!!!!」
みたいなシーンはよくありますよね。

自分の弱さや汚さに絶望したくなくて、
もしくは自分の弱さや汚さを知りたいから、
そんな理由で強さを求めた少年や美しさを求めた少女は
定義できないものを無理やりに定義しようとして、
その結果として強さを力だと、美しさは容姿だと盲信する。
上のセリフはそんな少年少女を諭すときによく使われると思うんだけど、

この手の話ばっかり読んでいると、
心の無いショベルカーに強さが宿らない。
冷酷な吸血鬼に美しさが宿らない。
…って逆に決めつけてしまいそうになります。

さてここでもう一度、問いましょう。
それじゃあみなさん完コスってなんだと思います?

例えば「ウィッグやカラーコンタクトをつけていること」だと思います?
例えば「作品愛」だと思います?

どっちも違いますよね。
こういうのは共同主観性の中に成り立つものであって、
主観を飛び越えているにも関わらず客観的なものにはなり得ないんですよ。
答えは「その中」にしかないんですよ。
決してアウトプット・出力はできないものなんです。

例えば完コスの定義をみつけた人がいたとしても、
彼の説明はきっと彼と彼と世界を共有する人にしか分からない。
別の言い方をするといわゆる禅問答ってヤツです。

完コスとはなんだって知恵袋で呟いても、ボイスで呟いても、
掲示板に書いても誰かに聞いても答えなんて出て来やしないんですよ。

完コスって何かと問い続けることは悪い事ではないと思う。
ただしそれはみんな「自分の思考の殻を破るため」にするべき事であって、
他人に聞いたら答えが出るものでは無いと思います。
知恵袋で聞いてもつぶやきで聞いても掲示板で聞いてもその答えはきっと出てこないのです。
これはもう宗教の世界であって、そこに近道などはない。

完コスって言葉を文章で説明できたとしても、
少なくとも本物か偽物かも分からないそれで他人の心を傷つけたり批判するべきではないし、
その考えは客観的なものにはなり得ない、
万物を測る物差しではない事は知らなくてはいけないと思います。

完コスなんていうのは“自分の中”で作っていけばいいと思います。
それが主観を飛び越えた時にきっとそれは「完コス」になると思う。
ダンスの技を究めていくのもいいし造形の技を究めていくのもいいし、
交流をとことんしていくのもいいし、友達沢山作るのもいい。

とにかく“自分の心の中の”コスプレイヤー像にむかって突き進めばいい。
それを文字で定義したり客観視できるようにする必要はないし、
もし出来たとしたらそれはただの偽物だと思う。
突き進んでいった結果、もしそれが主観を飛び越えればきっとそれは作品になる。
そうして出来上がった作品は完コスって呼んでいいんじゃないかな。

「強さ」も「美しさ」もきっと僕らの意識のずっと上のほうで明確に存在すると思う。
肝心なところでモザイクがかかるんだけど僕らの心の中には確実にあるんだよね。
そんな強さや美しさを求めて、山道を一歩一歩登っていくことが僕らには出来る。
ただし、人間を捨てて魔法少女にでもならない限り、
山の頂に到達できても天上に到達は出来ないと思うよ。
完コスってのも、きっとそんなもんだろうさ。

おわり

紫陽花を撮ってきた。

土曜日はスマートフォンを買い替えに行った帰りにちょっとだけ紫陽花を撮影してきました。
(追記:あっ、使ったカメラはスマホのではなくて別で持って行ったデジタル一眼です。)
毎年ガッツリ撮りたいとはおもうのだけれど、時期的に桜の花よりも難易度が高い。
東京地方での見ごろは今週~来週位までだそうです。

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まぁ、みんないいところも悪いところもあるんだよ。(アニメの実写化についての話)

小説には【神の視点】があるってよく言われていると思います。
例えば「彼が弓を射る音はいつまでも村人の心に残っていましたとさ。」みたいな文章。
こういう場面って恐らく活字メディアの優位性が存分に発揮される場面であって、
これを映像化するのって結構難しい気がします。

この文章を映像でどのように表現しようかと思った場合、
村人全員を映像におさめるのも難しそうだし、
心の中の音ってどうやって表現すればいいんだろうとか、
カットとカットの継ぎ接ぎで出来ている映像で永遠をどう表現すればいかとか。
やっぱ字幕とかナレーションに頼るしかないのかな…背景はどうしよう…。
中々いいアイデアが思い浮かびませんね(´-`)

最近動画の話をしていますがまぁ実は、今回はこういうのを映像で表現する際にどういう素材や技法を使うか…というクリエイティブな話ではなく、
それぞれのメディアにはそれぞれの優位性があるという話をしたいです。

映像はやっぱり表象や比喩で識閾下に訴える力が強いですよね。
例えば【林檎の映像】に【林檎以外の意味】を持たせる…っていうのは映像メディアの得意中の得意とする部分だと思います。漫画やアニメが得意なのはやっぱりその記号化、
頭に縦線入れたり頭の上に電球が灯ったりね(古い)。
まぁ、他にも色々色々あると思うのです。

まぁクリエイターさんっていうのは自分の表現を伝えようとするとき、
こういうメディアの武器や長所を意識して作品を作ると思うんです。

結論として何が言いたいかというと、
アニメには出来るけど実写には出来ない事もあるしその逆もある。
アニメが得意だけど実写は得意でない事もあるしその逆もある。

アニメを実写にするんだからアニメの雰囲気が壊れるのは当たり前なので、
原作の雰囲気を壊さないで作れというのは無理な話だと思います。
こんな土台無理な話を要求するのはファンとして以前に、
メディアの受け手として経験が不足しているように見えてしまうんですよね。
またアニメはアニメのままでいればいいこれ以上循環発展させようとは思わないみたいな、
こういう作品を衰退化させるファンによる原作の過剰な聖域化もどうなんだよって思うんですよ。

…まぁなんていうか、出来れば観てから批判して欲しいなと思います。

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続」が面白い

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続」を観たんだけどこれ凄い面白いな…
原作知らないどころか1期も観てないんだけど面白い。
また仕事やらないで最新話まで一気に観てしまった(´゚ω゚):;*.:;

いわゆる残念系のラブコメとか青春系のアニメやラノベって最近結構あるけど
それは客観的に観て残念というのが強調されている作品が多い気がして、
彼らは自分たちの行動に疑問は持ってないか、
もしくは疑問に思っているけど抜け出せずに何かに向かい突っ走っちゃっている姿…
つまり“痛い”姿の描写イコール残念になっているものが多いと思うんだけど、
それとは真逆に“後悔”とか“現状維持”とか“踏み出せない一歩”みたいな、
俺ガイルのなんていうか全てのベクトルが後ろに向いてたり停止しそうで危うい感じが新鮮ですごく好き。

中学生はともかく高校生の頃の後悔って恋愛にしても青春にしても往々にして
「やりたいと思ってたのにやらなかった。」事だと思うんだよね。

アニメを観てるとテンションの低さとは裏腹にそういう青春の後悔の分岐点みたいところで
動けないでもがき苦しんでいた気持ちを思い出させられて重力系魔法みたいなダメージがあって
何より俺の好みのタイプの面倒くさそうな女の子が沢山いて素晴らしい。