それはきっとまがい物ではなかろうかという完コスの話。

最近完コスについて語ることがフレンドさんの中で空前の大ブーム。
じゃあじゃあ、おじさんも便乗しようではないか。

完コスとはなんだ、これ禅問答ですよ。

人間長く生きてると自分の弱さとか汚さに絶望するんです。
弱い自分は嫌だ嫌だ汚い自分は嫌だ嫌だって、何とかそれに抗おうと思って、
強さとは何だ美しさとは何だって悶々と考えるわけですね。

強さって何だろうと考えてみると、
例えば「握力」だと思います?
きっと違う、例えば非力な少年に【強さ】が宿ることだってあります。
例えば「誰かを守ろうとする行動力」だと思います?
きっと違う、例えば心の無いショベルカーにも【強さ】は宿ります。

同じく美しさって何だろうと考えてみると、
例えば「陶器のように滑らかな肌を持つこと」だと思います?
きっと違う、突き刺さるほどの鋭利なトゲを持つ薔薇にも【美しさ】は宿ります。
例えば「人々を慈しむ深い愛を持っている」ことだと思います?
きっと違う、冷酷なドラキュラにも【美しさ】は宿ると思います。

「本当の強さとは、力“だけ”じゃないんだうぉぉぉー\( ‘ω’)/」とか、
「美しさって、見た目“だけ”じゃないのよキララララーン!!!!」
みたいなシーンはよくありますよね。

自分の弱さや汚さに絶望したくなくて、
もしくは自分の弱さや汚さを知りたいから、
そんな理由で強さを求めた少年や美しさを求めた少女は
定義できないものを無理やりに定義しようとして、
その結果として強さを力だと、美しさは容姿だと盲信する。
上のセリフはそんな少年少女を諭すときによく使われると思うんだけど、

この手の話ばっかり読んでいると、
心の無いショベルカーに強さが宿らない。
冷酷な吸血鬼に美しさが宿らない。
…って逆に決めつけてしまいそうになります。

さてここでもう一度、問いましょう。
それじゃあみなさん完コスってなんだと思います?

例えば「ウィッグやカラーコンタクトをつけていること」だと思います?
例えば「作品愛」だと思います?

どっちも違いますよね。
こういうのは共同主観性の中に成り立つものであって、
主観を飛び越えているにも関わらず客観的なものにはなり得ないんですよ。
答えは「その中」にしかないんですよ。
決してアウトプット・出力はできないものなんです。

例えば完コスの定義をみつけた人がいたとしても、
彼の説明はきっと彼と彼と世界を共有する人にしか分からない。
別の言い方をするといわゆる禅問答ってヤツです。

完コスとはなんだって知恵袋で呟いても、ボイスで呟いても、
掲示板に書いても誰かに聞いても答えなんて出て来やしないんですよ。

完コスって何かと問い続けることは悪い事ではないと思う。
ただしそれはみんな「自分の思考の殻を破るため」にするべき事であって、
他人に聞いたら答えが出るものでは無いと思います。
知恵袋で聞いてもつぶやきで聞いても掲示板で聞いてもその答えはきっと出てこないのです。
これはもう宗教の世界であって、そこに近道などはない。

完コスって言葉を文章で説明できたとしても、
少なくとも本物か偽物かも分からないそれで他人の心を傷つけたり批判するべきではないし、
その考えは客観的なものにはなり得ない、
万物を測る物差しではない事は知らなくてはいけないと思います。

完コスなんていうのは“自分の中”で作っていけばいいと思います。
それが主観を飛び越えた時にきっとそれは「完コス」になると思う。
ダンスの技を究めていくのもいいし造形の技を究めていくのもいいし、
交流をとことんしていくのもいいし、友達沢山作るのもいい。

とにかく“自分の心の中の”コスプレイヤー像にむかって突き進めばいい。
それを文字で定義したり客観視できるようにする必要はないし、
もし出来たとしたらそれはただの偽物だと思う。
突き進んでいった結果、もしそれが主観を飛び越えればきっとそれは作品になる。
そうして出来上がった作品は完コスって呼んでいいんじゃないかな。

「強さ」も「美しさ」もきっと僕らの意識のずっと上のほうで明確に存在すると思う。
肝心なところでモザイクがかかるんだけど僕らの心の中には確実にあるんだよね。
そんな強さや美しさを求めて、山道を一歩一歩登っていくことが僕らには出来る。
ただし、人間を捨てて魔法少女にでもならない限り、
山の頂に到達できても天上に到達は出来ないと思うよ。
完コスってのも、きっとそんなもんだろうさ。

おわり